【研究概要】
15世紀後半に築造されたとされる岩槻城は、豊臣秀吉の小田原攻めに備えて、大構(おおがまえ。城と城下町を取り囲む堀と土塁の総称。同様の総構を持つ小田原城が、武田信玄・上杉謙信の攻撃にも耐えられたことから、関東各地で建造された。)が構築された。明治以降、堀は埋められたが、岩槻城の大構はそのまま道路になった部分が多く、どこに大構があったか、現代でも特定することが可能である。実際に現地調査を行い、大構の場所を特定した。
~~このテーマにしたきっかけは?~~
僕は春日部在住ですが、祖母の家が岩槻城址公園の近くにあり、小さい頃から、この公園で遊んでいました。最初のころはただの公園と思っていましたが、そのうち、ここに城があったことを知り、そのころ小学校の自由研究でお城を調べていたこともあり、岩槻城に興味を持ちました。2年生の時の担任の木村博人先生が、日本史の先生でお城にも詳しいことから、いろんな話をしているうちに、岩槻城について調べてみることにしました。1年生のFDコースの生徒たちが、夏休みに岩槻フィールドワークを実施したこともきっかけになりました。
~~大変だったことは?~~
実地調査は9月のお休みの日に行ったのですが、まだまだ暑く、汗だくになりました。東京ドーム21個分の大きさを持つ岩槻城の大構を調査するのは、本当に大変でした。予想以上に時間がかかり、文章にまとめる時間がなくなり、締め切り日直前に徹夜をして仕上げました。
~~学んだことは?~~
明治維新後、各地の城が取り壊されました。大規模な堀はそのまま残ることが多いものの、小規模な堀は完全に埋め立てられて更地になり、後からはどこにあったかわからなくなることが多かったと思われます。岩槻城の堀の場合は、微妙な規模だったので、埋め立てて道路とすることになり、結果として、どこに大構があったのかが特定できることになりました。実地調査は大変でしたが、多くのことを学ぶことができました。また、地元の「岩槻地方史研究会」の大島様に色々とアドバイスをいただいたことが、研究の推進にとても役立ちました。地域の方との結びつきを大事にすることの大切さも学ぶことができたと思います。
~~今後の目標は?~~
大構の内側にあった、本丸・二の丸・三の丸が今どうなっているかを調査してみようと考えています。岩槻の町は、東京、名古屋、大阪のような大都市でなかったので、大規模な都市開発が行われず、結果としてあちらこちらに城があった時の名残があります。同じように城に興味を持つ人たちと協力して、探究を進めて行きたいと思っています。